じくじくと千切られた耳が痛む。いつまで経っても、この痛みには慣れることは無い。シローは、短い右耳を撫でる。
この星にも春が来たようだ。シローは、整った街道を歩いていく。未だ開拓途上の星ということもあり、人はまばらだ。開拓が終われば、おいしい料理を出す店が所狭しと出店されるのだろう。しかし、それをシローが利用することは無い。
シローはクマダの奴隷だ。
この右耳が、痛みと共にそれを知らしめていた。もちろん、自身が望んだことではない。何もかも、あの悪食野郎――クマダのせいだ。
目線の先にベンチがあることに気付く。座る。木の葉のざわめきが耳に優しい。相変わらず、右耳は上手く音を拾えていないが。
右耳をクマダに千切られたのは、シローがクマダの奴隷になってすぐのことだった。
理由は簡単。食うためだ。
奴隷に人権は無い。時には、残虐な主人に快楽目的で奴隷が殺されたという噂も耳にはしていた。しかし、それはごく一部の異常者の話。通常は、過酷な労働を課されることはあれど殺されることなんて無い。殺人は、どんな場所であれ禁忌とされている。貴族であれ、労働者であれ、奴隷であれ、それは変わらない。第一、貴族たちは外聞を気にするものなので、悪い噂の種になるようなことをすることはまれだった。
そんな中で、クマダはただ食うためだけにシローを買い、耳を切り取った。
冷たい牢の中だった。意味もわからず手足を縛られ、自分がなにか不味いことをしただろうかと不安のなか考えていたのを覚えている。すると、カツカツと檻の向こうから革靴の足音が聞こえた。クマダだ。クマダは、シローの様子を確認すると、外にいる召使いと少し会話を交わしたあと、再びこちらを向いた。身動きが取れないシローのもとに、クマダが近づいてくる……。
激痛が走った。長い右耳から冷たい感触が伝わってきた。その場に立ちあった召使の愕然とした表情を覚えている。そして、血にまみれたクマダの冷たい無表情も。クマダの狂気と切れ味の悪いナイフで耳を切り取られる激痛だけが、その場を支配していた。その間、クマダは一度もシローの顔を見ることは無く、ただただ耳だけを見つめていた。
耳を切り取ったクマダは、召使に切り取った耳を渡し何かを話した後、血まみれの服のまま牢を後にした。シローは突然訪れた狂気に、ただただ震える事しかできなかった。
しかし、その後のことと言えば何てことは無い。耳の治療を受けさせられたあと、他の奴隷と同じように働かされる。まるで、あの狂気の出来事は無かったかのように至って平穏な日々が流れていった。何度か脱走を企て捕まる事もあったが、それでもクマダにあからさまな嫌味とため息をされる程度。周囲の奴隷たちには、シローがなぜこんなにも脱走を試みるのか不思議がられたほどだ。きっと、クマダの狂気を知る者は数少ないのだろう。
あれが、探求心の塊であることをシローだけが知っている。
「それにしたって、なんで俺なんだ。別に、他の奴でもいいじゃんか」
「ちょうどよかったからだよ」
びくっと、シローの肩が震えた。振り返ると、真後ろにはクマダの姿。
「ボクがちょうどそういったものに興味を持っていた時に、お前を見つけたんだ。丈夫そうで、病気も持っていなかったからね。何より、耳が簡単に切り取れそうな、ちょうどいい長さだったから」
「……エスパーか何かか、テメーはよぉ」
「耳をさすって、そんな独り言を言っていたら大体見当がつくだろう?なんだ、あんなことをまだ覚えていたのか。過去をいつまでもネチネチ引きずるなんて、いかにもお前らしい」
クマダはそう言って、少しばかり嘲笑した。その顔をみて、シローは不愉快な気分になる。シローにとって、あの出来事はまさにトラウマだった。クマダにとっては、大した出来事ではないのだろう。そのことが、まるで自分がおかしいと言われている様で腹が立つ。
「けっ、俺の耳はおいしかったか? この悪食め」
強がって、言い返す。言い終わったところで、さっさと話題を変えればよかったと後悔した。体がわずかに震えている。悟られないよう、必死に平静を装う。切り取られた耳がじくじくと痛んだ。
「バカなやつ」
なにがバカだ。言い返そうと思っても、言葉が出てこない。クマダがゆっくりとシローの前に歩み寄る。その冷たい瞳と目が合い、必死に逸らした。
「ボクはね、食べ物は残さない主義なんだ」
そんな事、俺が知るかよ。
「どんなにまずい食べ物でも、それを知らなければいけない。だってそうだろう? まずい食べ物をしらなければ、おいしい食べ物のありがたみがわからないじゃないか」
あぁ、そのまま訳のわからない主義主張に話を切り替えてくれ。そう思っても、クマダの口調にはあの時の狂気がわずかに含まれている。それが恐ろしかった。
「たばこ」
クマダが言った。
「あの時は血の匂いに混ざってわからなかったけど、お前たばこ吸ってるだろう? ヤニ臭くて、たまらなかったよ。もう二度と、あんなものは口にしたくないね」
……へ?まさか、そんな風に言われるとは思っていなかった。肩の力が抜けるようだった。ふっと、体が軽くなる。
「ボクの知っている中で、間違いなく最低の料理だったよ」
そう言って、クマダは並木道を歩いていく。その声に狂気が含まれている気もしたが、もうわからなかった。
気が付けば、体の震えも収まっていた。なにか一言、言ってやろう。そう思って、ベンチから腰を上げ、クマダの背を追いかける。