10, 奴隷の男

「ふわぁ……」

 吐いた息が白く染まっている。城内から外を眺めるクマダの瞳には、一面の雪景色が広がっていた。

 花畑に雪が積もるという幻想的な風景がクマダの心を感動に打ち震わせる。

「予定よりずいぶんと早い初雪だな。うわぁ、さみ~」

 声のする方を振り向くと、昨晩出会った大男――アブラが眠そうな目をこすりながら野宿用に設置したテントからのそりと出てくるところだった。

「もう朝の9時だぞ。随分と遅起きじゃないか、アブラ?」

「午前に起きれりゃ超超早起きだよ。それに、昨日も言ったろ。俺の名前はアブラ・ケタブラのアブラだってば。油じゃねーのよ」

「おっと、これは失敬」

 アクセントを間違えたことをとっさに謝るが、アブラの言うアブラ・ケタブラが何を示す言葉なのかはわからない。アブラ曰く呪文らしいが、もともと魔法使いの出身なのだろうか?

「おっと?」

 そんなことを考えていると、アブラがぽいと何かを投げ渡してきた。慌ててキャッチしたそれはビニールに包まれたブロック型携帯食料だ。

「朝飯だよ。仲間のクローさんとやらを探さなきゃいけないんだろ?」

「シローだ」

 そっちこそ、思い切り名前を間違えるじゃないかと心のなかで思いながら携帯食をかじる。クッキーのような甘い香りが口に広がるが、朝の胃袋に外気のせいで冷たくなった食事は物足りない。

「早く行かないとね。こんな寒さだ。今頃、心細くて泣いているかも知れないぞ」

 携帯食をまたたく間に平らげたクマダは、BUGとの戦闘に備えナイフやフォーク、カードの確認を始めた。
 そんなクマダの様子を眺めながら、アブラは携帯食にかじりついた。

「シローってのはどんなひとなんだ?」

 探索中、アブラが言った。
 寒さを増した城内では幸いBUGに出会うことはなく、二人はひたすらに広い城の中を探索しつづけていた。しかし、アブラの目からすれば大して代わり映えしない城内の探索に飽きが来てからの、ふとして湧いた疑問だった。

「美人?」

「いや、醜いぞ」

 ニコニコとして訪ねたアブラの言葉に対し、クマダがピシャリと言い放つ。アブラはクマダの大きなリュックを背負っている。昨日、放置したものを先程取りに戻ったのだ。無事だったリュックを見て安心した反面、それを背負っていたシローのことを思い出し胸が苦しくなる。

「普段からボクの言うことを聞かずに文句ばっかり垂れる木偶の坊だよ。全く、今だってこうやってボクの手を煩わせるんだ」

 それを聞いたアブラはチェーっと口を尖らせた。

「え~、残念」

「なにがだ。仮に美人だったとしてもあなたには譲らないが」

「なんだよ。あんなにけなしといて、結局好きなのかよ」

 好き、とは。

「嫌いだがッ!?」

 大きな声で言い放った。アブラはとっさに耳を覆う。その声があまりに大きくて、広い城内に反射し何重にもエコーがかかる。それが聞こえなくなるまでに数十秒もかかってしまった。
 エコーが消えてから、ようやくアブラが耳から手を離す。

「す、すまない」

 申し訳無さそうにクマダが言った。自分の声の大きさに自分自身でも驚きながら、口を抑えて辺りを見回す。幸い、BUGの気配は無い。

「いやぁ、俺も変につついて悪かったよ」

 そうは言いつつも、アブラの顔はへらへらと笑っている。

「と、ともかくアレはボクのものというだけだ。それだけだよ」

「あぁ、そう。そうなのね~」

 そのニヤケ顔にどこか苛立たしさを覚えながらも、クマダは熱くなった顔を冷まそうとふるふると顔を振った。

「なぁ、そのコお尻おおきい?」

「しっぽは大きいが……いや、何を言わせるんだ! ハレンチな……」

 クマダが呆れながら腕を組む。それを見たアブラがへへへと笑った。

「いいなぁ、俺も早く嫁さんがほしいぜ」

 なんとも脈略の感じられない発言にクマダは首をかしげる。しかし、特に追求はせずに会話を続けた。この男が未婚なことは、その性格を見ればおおよそ想定がつく。

「それなら、もっと紳士的な態度をとるべきだ。それに、服装も大事だぞ」

 アブラは、ボサボサの頭に大きな体、体中の古傷を見せつけるかのような薄着の、いかにも荒くれ者の大将とでもいった風貌だ。シローもそういった荒くれ者な面はあるが、アブラに比べれば街のしたっぱチンピラのようなものである。

「こんな寒い中、そんな薄着でよく風邪をひかないものだ」

「動いてりゃ温まるからな」

「TPOは大事だよ。そうだ、シローを見つけて街に帰ったら、ボクが直々に紳士服を見繕って……」

「な~んで嫁さんがほしいって話からそんな流れになるかね! それに、そんな堅苦しい服を着てたら俺の筋肉が見えなくなるだろーが」

 アブラが、ふんっと腕に力を込め力こぶを作る。ボクにはその魅力は理解できないが……。

「俺もそろそろ身を固める歳だよなぁって思っててさ」

 アブラが口から大きなため息を漏らす。

「なら、この開拓が終わったら故郷に帰って見合いでもするといい。もちろん、パリッと糊を利かせた紳士な服装でね」

 既婚者であるクマダは、なんとなくの優越感を感じてふふんと得意げに言った。

「あー……、無いよ」

 そう言いながら、アブラはボサボサの頭をかいた。

「俺、故郷とか無いんだよね。奴隷の生まれだったからさ」

 予想外の返答にクマダは少し戸惑ったが、すぐに態度を持ち直した。

「なら、主人の家があなたの故郷だろう。それに、むしろ奴隷の身なら結婚して子供を持つのもそれほど難しくないのではないかな」

 奴隷の主人であるクマダも、奴隷同士の結婚――もちろん、正式な制度のものではなくあくまで事実婚ではあるが――を度々認めることはあった。場合によっては奴隷同士のお見合いすら行った。特に不利益がない限りは素直に認めてやったほうが奴隷の忠誠心も高まるし、それに家で生まれた奴隷の子は外の世界を知らないのでより忠誠心の高い奴隷に育つからだ。ただし――

「もちろん、その家の中で紳士的に振る舞っていればの話だがね」

 誰も結婚したがらない不人気者というのも中にはいる。

「なんだ、詳しいな。この地じゃ奴隷って単語を言うだけでも申し訳無さそうにされたりするのに」

 その件に関しては、クマダも身に覚えがある。文化の違いというのはどうしようもないことだが、何かと配慮が必要なことも事実だ。

「その文化はボクの故郷にもあったからね」

「なら、俺の事情もわかるだろ?」

「大抵のことはね」

 奴隷のことならなんでもわかる。クマダはふふんと得意げに鼻を鳴らした。

「奴隷に殺されたんだよ、俺の主人は」

「そ……」

 それはわからなかったな。突然の告白にクマダは足を止めてしまった。主人が奴隷に殺される?

「ひどいヤツだったから、いずれはと思ってたけどな。まぁ、でもよくある話だ」

 クマダが足を止めたことに気付かずに、アブラは話を続けた。

「それで生まれ故郷から逃げ出して自由の身になったはいいけど、どう暮らしていけば良いのかも知らなかったからな。俺は腕っぷしが強かったから、旅をしながら用心棒なんかやってなんとか食いつないできたけどよ。他の奴らはどうしてるのかなぁ。……クマダ?」

 ようやく隣にクマダがいなくなっている事に気が付き、振り返った。当のクマダは信じられないと言った風に目を丸くしてぽつねんと立ちすくんでいる。

「あー……、俺、なんか変なこと言ったか?」

「奴隷が主人を殺す? そんなことがあるのか?」

 クマダの故郷では聞いたこともない話だった。

「食事はどうする? 住む場所は? そもそも、そんなのことをしたらまず死罪になるんじゃないのか」

「まぁ、そうだけど。でも、そうなることを考えてもやらなきゃいけなかったんだろうな。そりゃ、俺が殺したわけじゃないけど。でも、誰もやらなけりゃいつかは俺がやってたかもなって思うよ。奴隷の主人っていう人間はさ、奴隷を人間じゃない、モノとしてしか見ていないんだよ」

 それはそうだろう。それが奴隷というものだ。

「死んで当然って感じ」

 クマダは、アブラの発する信じられない言葉の数々に頭をくらくらさせて、しかしなんとか倒れずに立っていた。
 その様子を不思議そうに見ていたアブラだったが、ふと何かに気付いたように口を開いた。

「もしかして、お前……」

 クマダの頬を冷たく嫌な汗がつたう。

「奴隷の主人?」

 先程まで和やかだったアブラの声音が、ピリピリした緊迫感を持ったものに変わっていた。
 アブラのじとりとした目つきが、クマダの心臓の鼓動を不安で加速させる。アブラの、奴隷の主人に対する敵愾心てきがいしんがどれほどかはわからないが「死んで当然」というくらいだ。きっと、並大抵のものではないのだろう。

(な、なにもかも、全部シローのせいだ)

 外の真っ白な雪景色に心を踊らせていた時間が嘘のようだ。クマダはシローを恨みながら、しかし、そこらの雪溜まりから真っ白なシローがひょいと姿を表してはくれないだろうかと有りもしない確率を心のなかで切望していた。

11, 恩讎分明(推定)

浮遊城は高度が高い。風を遮るものも少なく、冬ともなればその雄大な景色とは裏腹に極寒の気温となっていた。クマダたちのいる城内は風が遮られる分、幾ばくかはマシと言えたがそれでも気温はマイナスを下回っている。
 しかし、今のクマダのそれを気にする余裕はなかった。
 クマダは、対峙する大男から目を離せないでいた。

「うぅ……」

 アブラが今、何を考えて自分を見つめているのかわからない。今にも殴りかかられそうな、ただならぬ気配をピリピリと感じる。

おい!!」

 アブラが目を見開き、叫んだ。同時に、ガツンと思い切り殴られた。
 誰に? いや、殴ってきたのは確かにアブラだ。しかし、アブラとは距離が離れている。……?

「馬鹿野郎! ボーッとしてんな!」

 アブラがクマダに駆け寄る。同時に、クマダの頭上に大きな握りこぶしで殴りかかった。ドズンと、鈍い音が城内に響く。
 アブラの片腕で軽々と持ち上げられたクマダは、頭から血を流し朦朧としながらも状況を理解した。アブラのBUGだ!

「す、すまない……」

 頭がズキズキと痛む。衝撃で三半規管がやられたのか、地面が揺れるように感じる。アブラが持ち上げてくれなければその場で倒れ伏していただろう。
 アブラと瓜二つの姿を持ったBUGは、アブラの一撃を食らっても倒れる気配はない。見た目の通り、クマダよりもずっと丈夫らしい。

「立てるか?」

「……悪いけど、難しいかもしれない」

 どうやら、先程のただならぬ気配はBUGが発していた殺気であったようだ。勘違いでここまで劣勢に陥れられた自分が恥ずかしい。

「BUGは俺と実力も同じだ。坊っちゃんをかばいながら戦ってたら、きっと負けちまう」

 アブラがひょいと踵を返し、大きなバックとクマダを抱えながらも猛スピードで駆け出した。

「ここは逃げるしかねーな!」

 クマダは頭の痛みに苛まれながらも、それが最善手だと心のなかで同意した。

「あの野郎、しつこいな! 俺ってば、そんなにネチネチした野郎じゃないぞ!!」

 BUGからの逃走を試みてから十分は経過しただろうか。気温はマイナスを下回っているというのにアブラの体は熱く溢れ出る汗が肌を伝っていた。それほど全力で走り続けているというのに、BUGは一向に振り払えない。その上――

「出口どこ!?」

 迷子だった。  比較的素直な作りの城ではあったが、BUGから逃走中であること、アブラの覚えの悪さなどが絡み合って一向に1階へたどり着けない。

「クマダぁ、助けてくれ!」

 しまいには、倒れているクマダに助けを求める始末である。

「……あう」

 そのクマダも喋ろうとはすれどもパクパクと口を開閉させるのがやっとのありさまで、周囲の風景まで頭を回せていない。BUGに殴られた怪我も一因だが、逃走中にアブラがクマダを抱えていることを考慮しない走りであったための発生した酔いも大きな一因だった。

「くそ~、こんなとこに飛ばしたダイスの神様を恨むぜ……。あっ!」

 アブラの驚きの声に気付いて、クマダが顔を上げた。そこは古びた玉座が鎮座する王の間。周囲の扉は倒壊した柱によって塞がれており、すなわち――

「行き止まりじゃねーか!!」

 袋小路であった。それを好機と見たか、何も考えていないのか、アブラのBUGは無表情で間合いを詰めてくる。

「な、なぁ、殴ったことは謝るから許してくんない? ほら、食料とか分けてやるからさ…」

 持っていたカバンを揺らした。それはボクのカバンだ、と突っ込む気力すらクマダには残っていない。
 アブラは拳での格闘を武器とする開拓者だ。しかし、今のアブラはカバンとクマダで両腕がふさがっている。いや、仮にカバンを捨てたところでクマダをかばいながらではBUGと戦うのも至難の技だろう。

「……!? おい、クマダ!?」

 クマダが、ゆるりとアブラの腕から抜けて、BUGに向き直った。懐から取り出したナイフが、そのままクマダの手を離れ勢いよく空を切り――BUGから離れた柱に当たり弾かれた。

「お荷物でいられるか。元はと言えば、ボクのシローを助けるためだ。すべての責任はこのボクにある」

「おとなしくしてろって! わああ、もう!」

 ぐるぐると地面が回る。立っていられず、クマダは尻もちをついた。責任感だけが体を動かしている。ここでボクが倒れたら、一体誰がシローを助けてやるんだ。
 再び立ち上がろうとするクマダに、無表情のBUGが襲いかかる。とっさにアブラが駆け出すが、同じスピードでは到底間に合わない。今のクマダがアブラのBUGの一撃を喰らえばどうなるかは火を見るより明らかだった。
 バコン!
 大きな音が城内に響く。クマダが地面に倒れた。その前方の、アブラのBUGも同様に。

「大丈夫か、クマダ!」

 アブラの声ではない。これは……。

「シロー……?」

「おいおい、どうしたんだよその傷は! マジで世話の焼けるヤツ!」

 どこからか現れたシローが、文句をたれながらクマダを背負った。途端に、アブラのBUGが起き上がる。すると突然、BUGの体が炎に包まれる。

「ふぅ、危なかった。クマダさん、大丈夫ですか?」

「とりあえず、早く医者に見せたほうがいいな。最寄りの宿に戻ろう。あそこには病院も併設されてたろ」

 シローが、見知らぬ開拓者と話をしている。周囲を見ると、同じく見知らぬ顔の開拓者グループの姿があった。

「シロー、お前……」

「今はしゃべんな。安静にしてな」

 よっと、という声とともに背負われ、大きなしっぽに押さえつけられてしまう。

「あんた、開拓者? クマダを助けてくれてありがとな」

 BUGが炎に巻かれて塵へと変わる一部始終を複雑な顔で眺めていたアブラが、声をかけられふと我に返る。

「あんたがシロー?」

 おう、というシローの返事を聞いて、あからさまに肩を落とした。

「男じゃん」

「なんか俺、がっかりされてる?」

「いや……」

 そう言いつつも大きなため息をひとつ。

「まぁ、助けに来てくれたのは助かったぜ。それにしても、あんたどこにいたんだよ。クマダってば、あんたを探してさぁ。ずっとシローシロー言いながら歩き回ってたんだぞ」

 それを聞いたシローが目を丸くした。

「クマダが? まさか。俺、昨日クマダとはぐれてから、俺を置いて帰ったのかと思ってカード使って帰ったんだ。暗くなる前に」

「おいおい」

「いや、だって、いつものこいつならそれくらいするからな! それでさ、朝になっても宿にいないから、まさか帰れなくなってるんじゃと思って開拓者に声かけてついてきてもらったんだよ」

 反論して、ふと背中のクマダを見やった。クマダは目をつむり、すぅすぅと寝息を立てている。

「……悪かったって」

「クマダが起きたら言ってやりな」

 納得のしていないような、しているような、複雑な顔でシローは「うん」と返事をした。

 

 クマダに応急処置を行い。帰還用の転送カードを使用する準備をしていた。カードを使用するにはすこしの待ち時間が必要だった。魔力やルートの安定がどうの、とか言う理由らしいが、魔法に関しては門外漢であるシローにはさっぱりわからない。

「お前、奴隷なんだってな。俺もなんだ」

 準備の最中、アブラが小さな声でシローに声をかけた。

「といっても、元だけどな」

「元?」

 他の開拓者たちに聞こえないよう小声で話すのは、これがセンシティブな話題だからだ。この様々な文化圏の開拓者が集う場所ではおおっぴらに扱える話題ではない。

「おう。……お前さ、もしかしてクマダの奴隷なわけ」

「一応」

 それを聞いて、アブラが頷いた。

「クマダが嫌なヤツじゃないのは承知だがよ、俺も昔主人と奴隷で色々ゴタゴタがあってさ。こういうことを各地でやってるんだが……。お前、自由の身になるつもりはないか?」

 自由の身。長らく夢見ていた言葉を聞いて驚いた。

「奴隷の身じゃ何かと不都合だろ。旅するついでに、奴隷を逃して周ってるんだ。俺、昔の主人に両親を殺されてさ。暴動で奴隷の仲間も多く失った。良い主人ってのがどんなもんなのか、俺にはわからないけど……、ともかく権利がないってのは嫌なもんだぜ。お前が望むなら、お前を連れて自由の身にしてやれる。旅は大変だが、自由ってのは楽しいもんだ。しばらくいっしょに旅をして、どこか良い街があればそこに置いてってやることもできる」

 もし、ここではいと答えれば、きっと自分は自由になれるだろう。クマダを開拓者仲間に預けて、アブラと共に自由人として旅をするのだろう。見たこともない世界を見てまわれるなんて、この機会を逃せば一生ないかもしれない。

「あー……」

 返答に困る。何を悩む必要があるのか、わからなかった。クマダが自分に何をしたか、忘れたわけではない。しかし、どう答えれば良いのかもわかっていなかった。

「俺はいいや」

「そうか」

 深追いする話題ではない、といった風にアブラはいとも簡単に引き下がった。それきりアブラが奴隷の話を口に出すことはなかった。帰還し、クマダを病院に預け宿にチェックインした後、アブラはまだ行くところがあると宿を去っていった。

(なんで俺、あそこで断っちゃったんだろ)

 宿の狭い喫煙所。ひとりでタバコを吸いながら、シローはぼんやり考えていた。あそこでついていっていれば、金輪際クマダの横暴に苦しめられることもなかっただろうに。

(……ま、俺ってば優しいからな)

 そう考えて、この件はおしまいとしよう。あんな男でも、ここでひとり放っておくことはできない。なぜなら、俺は優しいから。
 吸い尽くしたタバコを灰皿に押し付け、もう一本新しいタバコを口にくわえた。マッチを懐から取り出し火を付ける。結局の所、今のシローにその答えは出せないでいた。
 クマダが起きたら、また何かにつけてどやされるな。その前に、タバコくらい多めに吸っておこう。
 シローは肺に煙を含ませながら、小さな窓から見える空を見上げた。空はからりと晴れ渡り、雲ひとつ無い晴天だった。

12, 開拓者の年越し

 すぅ、はぁ。吐かれた息が白く染まる。縁側から雪の降り積もった庭を見つめ、クマダは大きく背伸びをした。そのまま、肩をぐるぐると回す。クマダはしばらくの養生で元気をすっかり取り戻していた。頭に巻いた包帯が、未だに先日の戦いの爪痕を表してはいたが。
 ただ、クマダが浮遊城での戦いから一週間が過ぎようとしている中、未だにこの宿に滞在しているのには理由があった。クマダは新年早々、仕事に追われていた。開拓の為に未開の地を進むクマダを襲っていたのはBUGだけではなかった。白い書類の山、山、山…。病院のベッドで目覚め宿に帰ってきたクマダは、旅館に送られてきたそれを目にしてしばらく立ち尽くすしかなかったほどだ。

「……ボクは、本来、資本家で労働をする必要はないはずなのに。……いや、これは言い訳だな。全部、自分でやると決めたことなのだし。ええと、これは雑誌のコラム……。これは書籍のゲラか……」

 椅子に座り、書類を一枚一枚確認しはじめた。

 そんなわけで、クマダは今旅館の一室で書類と戦っているのだった。和風な旅館の雰囲気に合わせたのか、クマダの服装は普段の燕尾服ではなく、和服の半纏を羽織っている。気分転換のために、縁側へと足を運んだクマダは、日の光をキラキラと反射する氷の粒たちにくぎ付けになっていた。虫けらまみれの星だがこんなにきれいな雪が降るんだな、とクマダは思う。同時に、この雪と寒さであの虫どもが死滅してくれないだろうか、とも。

「こんな良い景色見ても眉間に皺よせんのか。てめーは」

 クマダが振り返る。そして、ぎょっとした。声の主は、クマダの奴隷であるシローのものに間違いはなかったが、しかしその姿は普段目にする奴隷のものとは違っていた。まるで、巨大に絞ったホイップクリームに足が生えたかの様な……。

「お前、とうとう人間をやめて食材に成り下がったのか……?」

「バカ野郎。寒いからしっぽ体に巻いてんだよ。なんだ、悪食さが目まで腐らせたのか?」

 そうシローは悪態付くが、誰がどうみたってその珍妙な姿はホイップクリームのシルエットだ。そうだ、今日のおやつはホイップクリームがたっぷり乗ったケーキにしよう。そう思った途端にじゅるりと涎が垂れそうになったが、そんなことでシローに罵られたくはないのでゴホンと咳ばらいをし、話題を逸らす。

「新年だな。まさか、この星で年をまたぐことになるとはね」

 視線をホイップクリームおばけから庭園へ戻す。そして、この星に来る前のことを思い出す。本来なら、開拓には部下を向かわせるつもりだった。しかし、実際に現地に送ってみれば味方に姿を変えるBUGに怖気づく者たちばかりで仕事にならない。実際に現地で開拓を進めているクマダも、未だにBUGには慣れなかった。
 はじめは、観光気分で少し顔を出すだけのはずだったのだ。まさか、年越しをこんなところでするなんて。

「クソさみー。雪すげーなと思って出てきたけど、もう俺戻るわ。あとで、ホットコーヒーでも飲もっと」

 シローの、相変わらず品のない言動に大きなため息が出る。それも寒さで白く色づき、そして消えていった。そして、口から続けて吐き出される言葉。

「あけましておめでとう。今年もよろしく」

 こんな奴だが、まだしばらくは共に開拓を進めていくのだろう。奴隷は人間ではない。人間でないが、挨拶くらいはしてもいい。
 シローを見やる。案の定、目を丸くして驚いている。その姿があまりにおかしなもので、クマダはくくっと笑い声が漏れる。

「今年も、ボクの為に働いてくれよ。奴隷くん」

 アブラがなんと言おうが、シローは自分の奴隷だ。憎むのならそれでもけっこう。だが、これだけは譲れない。長年奴隷の主人として生きてきた、一種の矜持だった。奴隷をやめ自由を好いたアブラに対する反抗でもあっただろうか。
返事は求めていない。返ってきたとしても、品のない罵りだけだろう。
 小さく、おう、と聞こえた気がしたが定かではない。